ある日、ある夜

ある日、ある夜

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 インターフォンからただいまと言う夫の声が聞こえて三生が玄関のドアを開けると夫の高宮とその後ろにひとりの男が立っていた。
「じゃあ先輩、俺はこれで」
「ありがとう。今度また連絡させてもらうよ」
 三生がなにかを言う前に高宮とその男がそう話して男が三生にも軽く頭をさげた。高宮が家に人を連れてきたのは初めてだった。男は高宮より少し若いだろうか。着ているスーツは黒紺のスリムなラインのもので、礼儀正しく会釈をした顔は思わず三生が目を瞠ってしまうほど整っていた。
「あ、どうぞ、お上がりください」
 お客様ならと思って三生は言ったのだが、男はさっと後ろへ下がっていた。
「いいえ、今日は失礼します。先輩、お大事に」
 引きとめる間もなく男は帰ってしまったが、三生は客の男が最後に言った言葉に驚いていた。

「どこか具合が悪いの、雄一さん」
「うん?」
 高宮は靴を脱ぐと居間に入ってネクタイを緩め、上着を脱いでいる。その様子はいつもと何ら変わりはないのだが、まだ夕方の五時だ。帰ってくるにしても少し早い時間だった。
「だって」
「大丈夫。ちょっと足首の調子が悪かっただけだよ。古傷なんだ」
「足首? 古傷って?」
 三生には初耳なことばかりだった。ソファーへ座った高宮が右足の足首を触った。
「大学のときに足首を痛めたことがあるんだ。バスケをやっていたからね。バスケ選手にしてみたら足首の怪我は職業病みたいなものだよ。大学を卒業してからはなんともなかったんだが、少し前からなんとなく調子が悪くてね。今日は仕事を早めに終えて大学のときに診てもらったところに行ってきた。そしたら偶然そこで後輩に会ってね。彼も同じバスケ部だったから」
 三生が高宮の前に膝をついてじっと見ている。
「私はタクシーで行ったんだが、彼が送ってくれると言ったので送ってもらったんだ」
 高宮がそう話すあいだも瞬きもせずに真剣に高宮の顔を見つめている三生の表情に思わず高宮は笑いそうになって三生の頬へ手を伸ばした。
「雄一さん!」
 どうやら三生の追及を逃れるのは難しいらしい。ここは笑ってはいけないところだ、と思いながらも高宮は三生に安心させるようにほほ笑んだ。
「大丈夫だよ。関節が少し腫れていたらしい。湿布薬を貼ってそれで様子を見ればいいと言われたから」
「ほんとうに?」
「本当だよ。もう痛みもない。すまない、心配させてしまったかな」
「……そんなこと」
 やっと三生が安心したように言ったが、目の表情はまだ心配そうなままだった。
「わたし、今まで雄一さんの体のことってあまり知らなかった。そういうこと、ちゃんと知っておかなきゃいけないのに」
 急に三生が立ち上がった。
「雄一さん、お夕飯はもうすぐできますけど、歩くのは良くないですよね。あ、動かないで。着替えはわたしが持ってきます」
 そう言ったかと思うと部屋を出た三生がすぐに着替えを持って戻ってきた。
「はい、ズボンを脱いでください。お手伝いしますから」
「三生、そこまで悪くないよ。下から歩いて上がってきたんだから。着替えくらい自分でできるよ」
 高宮がそう言ったのに三生はしごく真面目な顔で着替えのズボンを持っている。
「だめ。おとなしく言うとおりにしてください」
「いや、でも」
「病院へ行くこと、言ってくれなかった罰です。わたしに言っても頼りないだけかもしれませんけど」
 目を伏せた三生のまつ毛が濡れているように見えた。こんなことで泣く三生でもないが、心配させまいと病院へ行くことを言わなかったことが三生にとっては悲しかったのかもしれない。おとなしく着替えを手伝ってもらいながら高宮が三生の顔を見ると三生の表情は泣きそうというよりは、やはり心配しているような表情で高宮の足元を気をつけて見ていた。
「すまない」
 もう一度言うと三生は静かに首を振った。もうそれだけで抱きしめずにはいられなくなる。キスをして三生の唇を甘く愛撫する。小さく抗うようにした三生だったがやがておとなしくなった。やっと唇を離すと三生が高宮の腕の中で吐息のように息を吐き出した。
「お夕飯、こっちへ運びますね」
「食べさせてくれるのかな」
 高宮の腕を押し返した三生がもっとびっくりしたような顔をしていた。
「雄一さん、悪いのは足でしょう」
 あっさりと却下して三生が立ち上がった。

「そういえば送ってくださったかたにお礼もちゃんと言わなかった。なんだかすごくきれいな人
だった。男の人ですよね」
 食事を運んできた三生がソファーの横に並んで座りながらそう言った。
「ああ、彼はね、大学時代から有名だったからね。女の子たちから王子って呼ばれていたくらいだから」
「バスケ王子ってことね」
 三生の言葉に高宮が笑った。
「彼に見とれていた?」
「見とれてなんていません。ちょっとびっくりしただけ」
 高宮の言葉に三生がちょっと意外そうな表情をした。高宮にしてもそれ以上追及する気もない。
「彼も六月に結婚したそうだよ。常盤も三十になったはずだな。三光製薬の社長の息子だからもっと早く結婚するかと思っていたが」
「お幸せなのね」
「私たちみたいにね」
 夫の手が三生の腰にまわされて、あたたかな体温が伝わりあうように三生の体を寄り添わせた。
「気分は悪くない?」
「うん、大丈夫。朝はちょっと気分が悪いときもあるけれど、すぐに治まるから。わたしって、つわりが軽いほうみたい。明日は大学へ行くね」
 三生のまだ目立たない腹部を思いやるように高宮の手がやさしく腰をなでている。
「気をつけないと」
「それは雄一さんも同じですよ。わたしのことばかりじゃなくて、気をつけてくださいね」
「はい、気をつけるよ」
 夫の言葉に三生が笑った。三生を見ている夫の目がやさしく笑っていたから。

終わり


2011.10.19  アンケート「空花の庭・お好きな男性登場人物は?」高宮1位記念としてブログに記載。
          2位の人もちょっとだけ登場。



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