彼方の空 14

彼方の空

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14


「もうやめろ」
 拓海ではない声。そこにいたのは車を運転していた男子学生だった。
 拓海も見ている。三生の腕をつかんだまま男子学生へと向きなおった。
「おまえは黙っていろよ」
「三生さんは嫌がっているのにか」
「うるさい!」
「おまえっていつでもそうだな。自分の気に入らないことは受け入れようとしない。だが拓海、これ以上のことをやったら犯罪だぞ」
 男子学生が近づいてきて三生のバッグを差し出した。
「芸術学部三年で映像研究会の早川です。すみません、送ります。ご主人があなたを探している」
「勝手なことをするな! 早川、おまえ白広社の社長に取り込まれたのかよ!」
「勝手なこと? 勝手なのはおまえのほうだろう」
 拓海に言う男子学生の表情が少し歪んだ。
「見くびるなよ。俺じゃなくて白広社の社長を。社長は俺におまえという才能を潰したくないって言ったんだぞ」
 一瞬、拓海の体が止まった。
「は! 笑わせるな! あんな男に何がわかる。あんな、あんな男に!」
 拓海が三生の手首をつかんだままだった。

「拓海、三生さんに映画に出てもらいたいっていうことと、おまえの気持ちを混同するなよ」
「混同してない。俺は」
「だけど拓海、俺にだってわかったよ。おまえ、三生さんのことを――」

 早川が言い終わらないうちに拓海が無言で殴りかかっていた。
「沢田君!」
 止めようと腕をつかんだ三生を拓海は振り向きもせずに振り払った。勢いによろけた三生の体が壁の白黒写真へぶつかった。
「あっ!」
 三生がぶつかったのは壁面にかけられていた三生自身の写真だった。大きな写真はスクリーンのように吊り下げられていたらしく、三生がぶつかった衝撃で天井からはずれて傾くように落ちてきた。とっさに腕を上げて頭をかばった三生の体をかすめるように大きな音をたてて床へ落ちた。 ライトの光に激しくほこりが舞い上がる。

 三生の足元に崩れ落ち、折れ曲がって破けた写真。
 拓海が早川の胸倉をつかんだままそれを見ている。唖然とした、というよりはどこか表情を
失ったような顔で。
「沢田君」
 三生が言うと拓海が三生を見たが、三生を見ているのに見てはいないような拓海の目。
「あなたになんと言われようと、わたしはもう二度とやらない。だって……このときのわたしは演技なんてしていない。していなかった。違う自分になんてなれなかった。たとえ今のわたしにそれができたとしても、わたしはそうするつもりはない。わたしにはもう必要のないことだから」

「……どうしてなんだ」
 拓海が早川から手を離した。
「どうしてそこまで拒むんだ。あんたにはできるのに。あの男がそうさせているのか」
「違う」
 三生がじっと拓海を見た。
「あの人はそんなことはしない。絶対に。あの人はわたしが納得しないことをさせるような人じゃない。沢田君がどんなにわたしに才能があると言ってくれてもわたしがやろうとしないのは、それは」
 三生が息を吸い込んだ。胸がかすかに痛い。
「わたしの母がキャスリーン・グレイだからよ……」







 三生は走っていた。
 早川に送ってもらうことなど考えられなかった。自分のバッグを持ってビルを飛び出すと、ここがどこかわからなかったが、とにかく走っていた。そうすることしかできずに。走って少し広い道へ出ると電車の駅へ行くことができないか、 それともタクシーがいないか見回して走るように歩いていたが、その時になって自分の携帯電話が鳴っているのに気がついてようやく立ち止った。震える手で携帯電話を開くと高宮からだった。
『三生!』
「…………」
『無事か? 無事なんだな?』
 はあはあと息が躍って声が出なかった。
『三生! なんとか言ってくれ!』
 高宮の声が切迫している。
「……だ、だいじょうぶ」
『今、どこにいる? 場所は?』
「わからない。住宅街で……目立つものがなくて」
『看板か電柱がないか見るんだ。交差点の信号機でもいい。地名の表示があるはずだから』
『ちょっと待って。えっと」
 三生が地名表示されている電柱を見つけて世田谷と書いてあるそれを告げた。
『わかった。すぐに迎えに行く。そこを動かないで』
「……待って、雄一さん」
『私は大学から引き返すところだ。そっちへ向かっている。すぐに行くから』
「だけど、だけど、わたし、行かなきゃ……空港へ。キャスリーンが」

『知っていたのか』
 高宮が短く問うた。
「心配かけてごめんなさい。会いたくないって言ってしまったのに。もう間に合わないかもしれないけど、遅いかもしれないけれど……でも、行きたいの。行かせて」
『三生』

『……行けるか?』
 電話から聞こえてきた高宮の言葉に思わず涙が落ちそうになった。
 キャスリーンに会いに行くことができるか。ひとりで行けるか。
 自分を待てと言いたい高宮の気持ちが、彼がその気持ちを抑えてそう言っているのを感じて涙を払って行けると答えた。
『わかった。私も車で空港へ向かう。三生が会いたくないと言ったこと、キャスリーンには伝えずにいたんだ』
「え……」
『迷っていただろう?』

 ……迷っていた。
 ずっとずっと迷っていた。キャスリーンが日本に来ていると聞いた時から。会えないと言ってしまった時から、ずっと。
 雄一さんはそれを……。

 うん、と詰まったような声で答えることしかできなかった。見えるはずもないのに彼へ小さくうなずいて。
『成田の第一ターミナル、南ウィング、17時の便だ。急いで』






 巨大な空港のロビー。
 だが思うように走れない。ロビーを歩く人を避けながらどんどん息が苦しくなる。ずっと走っていて息があがっている。まわりを見回しながら、搭乗ゲートを探して、もう間に合わないかもしれないと思うと体から力が抜けそうになる。アナウンスされる音もよく聞き取れない。苦しくて……。
 もうこれ以上走れない。立ち止ったが搭乗ゲートの近くに大勢の人がいるのを見て急に不安にかられる。もしかしたらマスコミがいるかもしれない。キャスリーンを見つけられても、もしかしたら……。
 足がすくんでよろめきそうになったそのとき、力強い腕が三生の体を支えた。
「あ……」
 見上げた三生の度を失ったような瞳の色。高宮を見上げる三生の唇が開いている。
「雄一さん……」
「三生、大丈夫だ。私がいる」
 やっと三生の目がしっかりと高宮を捉えた。胸へ手をあてて呼吸をしている。
「雄一さん、キャスリーンは」
「向こうだ。一緒に行こう」

 また歩き出した三生の歩く歩調がだんだんと速くなる。それにぴったりと合わせるように高宮の歩く速さも早くなる。腕を三生の体へ回すようにしながら、それでも三生が早足で歩くのを妨げることなく。
 
 搭乗ゲートの前には人影は少なかった。もうすでにほとんどの乗客が乗り込んでしまっているようだったが、最後にゲートへ向かおうとした白い帽子をかぶった後姿。となりのジェフに背を守られながら歩くサングラスをつけた横顔が見えた。

「キャスリーン……」

 ゆっくりとその人が振り向いた。サングラスをはめたまま驚いたような表情が一瞬でかすかなほほ笑みに変わったのが三生にもわかった。キャスリーンは三生が近づくとさっと身を乗り出して三生の顔へ自分の顔を寄せた。

「コムフォート」
 かすかに触れて離れていった頬。もう後も振り返らず。

 ジェフが手を振っていたが、すぐにふたりの後ろ姿が通路の向こうへ入って見えなくなる。息を弾ませながら三生はただ立っていた。そうすることしかできなくて。
 三生がまた歩き出した。展望デッキへ上がるとやがて飛行機の機体が動いて滑走路へと向かって行くのが見えた。ゆっくりと動く機体。大きな機体がだんだんと離れていく。
 遥か上空の空に広がる夕暮れの藍色の大気。やがて飛び立つ機体のむこうにはさまざまな光が交錯している。そして明滅する光をいくつもまとわせて飛行機が飛び立つ。

 彼方の空へ。
 空に動く光が小さくなっていく。それぞれの思いのように彼方の空へ消えていく。
 いまはそれを見送るしかない。




 藍色の空がだんだんと夜の色に変わってやっと三生が振り向いた。
 唇を開いて、なにか言おうとして言えないまま、また閉じた。そんな三生を高宮は見下ろしている。三生が手を差し出すとあたたかい手に握り返された。
「コムフォートっていうのはキャスリーンがつけてくれた名前なの。わたしにコムフォートって……」
 なにも言わず、そのかわりに三生の手を握る手に力がこもった。
「母にとってわたしはコムフォートだったのかな……」

 コムフォート。慰め。

「三生は三生だよ」
 高宮が言った。
「三生は三生だ。三生を愛している」
「うん……」

「帰ろう、三生」
 うなずく三生。
 高宮の車へ乗り、運転手が車を出す。静かに走り出した車の中でとなりに座る高宮を見上げた三生を待っていたように彼の腕が引き寄せた。車の中にもかかわらず頬へ唇がつけられて、彼の頬が、唇が離れない。

 愛しい人。
 なによりも大切な人がいてくれるから。

 いつかまた会えるその日まで。そして、それからも。
 空は彼方へ続いている。

終わり


2011.02.27
窓に降る雪 拍手する

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