彼方の空 13

彼方の空

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13


「キャスリーン、本当にいいの?」
 高宮からの電話を切った後でジェフが尋ねた。キャスリーンの体へ腕を回し、自分を見上げさせるようにして。
「このまま帰ってしまっても」
「そうね……でも、しかたがないでしょう」
 キャスリーンがあきらめたように笑った。
「そんなことを言うなんてあなたらしくもない。後悔するのは嫌いだって言ってたじゃないか」
「嫌いよ。でも、これまで一度の後悔もなしに生きてこられたわけじゃないわ。ことに」
 言葉を切ったキャスリーンの瞳をジェフは見ている。
「三生のことに関しては」
「それは自分の心の声に従ったゆえの後悔? それとも従わなかった後悔?」
「両方」
「……両方ね」
 ジェフがため息をついたが、彼の顔はそれほど哀しそうな顔ではなかった。
「雄一が迎えに行くと言っていたから、もしかしたら三生は来るかも知れない。でも来ないかもしれないわ。三生にとって私はそんな母親なの」
「そんなことはないと思うな」
「ありがとう、ジェフ。そう言ってくれて。でも帰ると決めたの。空港へ行きましょう」





「ここだよ」
「え? でも」
 車が止められたところはどう見ても映画館やシアターのある建物には見えない。それほど大きくはない四角いビル。上映会は渋谷で行われると言っていたはずで、途中までは車は渋谷方面に向かっていたようだったが。
「ここは会場じゃないでしょう。どうして」
「でもジェフはここにいるんだよ。ここにはショートフィルム・フェスティバルの事務局があるんだ。あんた、ジェフに会いたいんだろう?」
 そういえばジェフは審査員として来日しているのだと高宮が言っていた。本当だろうか。そんな疑いが頭の中をよぎったが、車に同乗していたふたりも一緒についてくるのを見て三生もビルの中へ入った。

 部屋のすみには細長い会議テーブル。パイプ椅子が壁際に寄せられるようにいくつか置かれただけの他にはなにもないがらんとした部屋に灯りだけが煌々と灯っている。
「ここ……」
 閉めたドアの前に立つ拓海に三生はくるりと振り返った。
「ジェフは?」
「ジェフ? さあ、今頃慌てているんじゃないの」
 拓海はなんだかおかしそうにそう言った。
「彼の奥さんって有名人だったんだよ。新婚旅行だって言っていたのに変だなって思っていたんだけど、あのキャスリーン・グレイだったなんてね。今頃ジェフのいるホテルはマスコミに取り囲まれているだろうな」
「な……」
「えー、キャスリーン・グレイって結婚したのぉ。それに日本に来ているってホント? 今まで一度も来たことなかったのに。日本嫌いだって言われてたよね」
 三生の声が後輩の女の子の声にさえぎられるように途切れたが、三生が思わず向けた視線を拓海は受け流している。
「嘘だったのね! ジェフがいるって言ったのに」
「大きな声を出すなよ」
「ジェフの……キャスリーン・グレイのことをマスコミに漏らしたのはあなたなの」
「だったらなんだよ」
 平然と言い放つ拓海に三生は足が震えそうなほどだった。

「帰ります。そこをどいて」
「待てよ」
 ドアへ向かった三生に拓海が手を伸ばしてきた。振り払おうとしたその隙に肩にかけていた
ショルダーバッグを引っ張られてしまった。あっと思って取り戻そうとしたが遅く、拓海は三生のバッグをドアの前に立っていた男子学生に向かって投げた。
「じゃ、頼むよ」
「沢田君!」
 三生が叫んだが、男子学生と拓海が部屋の外へ出てドアを閉めた。三生のバッグは持って行かれてしまった。

「先輩、これに着替えてください」
 手首を握られてはっとして振り返ると後輩の女の子が大きな紙袋を持っていた。楽しそうな、はっきりとした声でそう言う。
「さわらないで」
 自分の服に手をかけられて三生はその手を撥ね退けた。
「あなた、こんなことしていいと思っているの。わたしは帰るわ。沢田君にもそう言って」
「わたしってメイクアップアーティスト、やっているんですよね」
 話がかみ合わない。
「拓海が連れてくる女ってどんな女かなって。あの拓海がこんなことまでして」

 ぱっと三生がドアへ向かった。開かないかもしれないと思ったがドアノブを回すと簡単に開いた。
「先輩!」
 女の子の声を無視して廊下を走った。短い廊下の突き当たりにまたドア。ドアしかない。そこを開けて、しかしそこは入ってきたビルの入り口ではなかった。
「なんだ、着替えてないのか」
 部屋の中にいる拓海を見て、この部屋のドアを開けてしまったことがまるで誘導されでもしたような感じがして三生は茫然とした。

 どうして……。

 壁には大きな白黒写真。天井へ届くほどの大きさの、そこに映っている女の顔。
「あんただったんだ」
 拓海が三生の前に立っている。顔が着きそうなほどに間近に立たれて否応なく三生は後ず
さった。
「あんただったんだ」
 拓海が繰り返した。
「やっと見つけた」

 壁のように大きな白黒写真の中の女。
 その写真は三生自身だった。かつてモデルを務めた広告写真。その写真が白黒で大きく引き伸ばされている。
 そのとき、パッとつけられた強い光に照らされて一瞬まわりが見えなくなる。まぶしくて手をかざしながら三生にもわかった。その光が撮影用に使われるライトだということが。拓海が部屋の向こうに立ち、ビデオカメラを構えている。
「撮るのはやめて!」
 三生が叫んだが拓海はやめようとしない。
「そういうところ、気が強いんだな。見た目と違って」
 拓海が三生を見透かしているような顔をしながらビデオで撮っている。
「それが素?」

 ビデオカメラが作動しているかすかな音。
 撮られているという不愉快さ。
 やめようとしない拓海。

「いつもは自分を隠しているってわけ? たいしたもんだね。この写真と同じ人間だなんて誰も思わない」
 三生は答えなかった。
「撮るのをやめて」
「わかってないなあ。あんた、自分が持っているものを知らないんだ。いや、知らないふりをしているだけなのか? あんた、いちどは宮沢に撮られているんだ。自分でも知っているはずだ」
 急に拓海がカメラを構えたまま前に来た。視線がぶつかる。
「認めてしまえよ」
 答えずに三生が拓海の持っていたカメラのレンズを手で掴もうとしたが、拓海がカメラを振って振り払うと逆に三生の手をつかんだ。
「強情だな」
「嫌だって言っているでしょう。あなたに強制される理由はない。手を離して。わたしは主人と約束があるんです」
 拓海につかまれた手首がきつく締め付けられている。
「あんなやつの言いなりか。それとも言うことを聞いていないとまずいのか。玉の輿だもんな。自分の才能を生かすよりもそういうものが大事なんだ。あきれたね」
「やめて! どうしてあなたに主人のことをあんなやつなんて言われなきゃならないの」
「へえ、束縛しているだけの旦那なのに? 物わかりのいいような振りしてもあいつはなにもわかっちゃいないんだ。でも俺は気がついた。あんたがあのモデルだってことを。ほかの誰もが気がつかなくてもな」

 ……ほかの誰も。

 信じられない思いで三生は拓海を見た。
 なぜそうまで言うのか。それは間違っているのに。
 だって雄一さんは気がついていた。あのモデルがわたしだと。気がついていたけれど、でも
ずっとなにも言わなかった。

 それに……わたしは演技なんかしていなかった。あのときのわたしは。
 姿かたちを変えられても、あのときのわたしは演技じゃなかった。ただ雄一さんの離れていった理由がわからなくて、悲しくて。

 三生は目の前のきつい目つきで自分を見ている拓海を見返した。

 でも、この人にそれを言う必要なんてない。ふたりのあいだにあったことをこの人に言う必要はない。だってわたしは……。

 ふっと三生が笑った。その顔に思わず拓海が息を呑んでしまうような笑みで。けれどもその笑みが消えないうちに三生が言った。
「あなたには関係ない」
「なんだと!」
 突き放すような三生の言葉に拓海が両手で三生の腕をつかんだ。ぐいと引き寄せられて三生が悲鳴をあげそうになった、その時。

「拓海、もうやめろよ」


2011.02.18

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