彼方の空 12

彼方の空

目次


12


 翌日。
 三生はいつも通りに電車に乗って大学へ向かった。今日は書類を提出したらすぐに帰り、着替えをしてから華道展の会場のデパートで高宮と待ち合わせることにしていた。
 高宮は今朝も「気をつけて」と言って会社へ出かけて行った。キャスリーンのことがあったせいか高宮はなんとなくわたしを見ているような感じがする。彼がわたしを気遣いながらもそっとしておいてくれているのだろうと思えるのだが。
 大学の門へ向かって歩きながら三生は小さくため息をついた。
 こうしていれば時間が過ぎて、やがてキャスリーンは帰ってしまうだろう。やり過ごすように時間が過ぎるのを待っている。それがなんだかキャスリーンのことから目をそむけているように感じる。
 でも、気持ちを切り替えなきゃ。午後には華道展だ。美和の家は雄一さんの会社の顧客なのだから……。
 そう考えながら歩いていた三生だったが門を出たところで立ち止った。
 大学の門の前の開けたスペースから道路へ出たところへ止めてある車のそばに沢田拓海が立っていた。まるで三生を待っていたかのように。拓海は今日も黒づくめの服装だった。
「帰るの」
 またか、という思いにうんざりしそうになったが、顔には出さずに歩き出した。
「今日、映画の上映会があるって言っただろう」
 三生はすぐに答えなかった。勝手なことを言っていると思って。
「それはお断りしたはずですけど」
「でも誘っているのは俺じゃなくてジェフだよ」

 拓海の言った言葉に三生はもう一度立ち止まった。
「……ジェフって」
「ジェフリー・レイエス。アメリカの映画監督だよ。この前、俺が案内していただろう。彼が吉岡さんに来て欲しいって言ってるんだ。俺は頼まれただけ。だけど来てくれたら俺の顔も立つんだけど」
 いつもの拓海らしくない言い方だったが、三生は警戒しながらも尋ねた。
「その上映会っていうのはトーキョー・ショートフィルム・フェスティバルのこと? その上映会にはジェフも来るの?」
「ああ、来るはずだよ。そう言ってた」

「先輩、私たちも行きますから。一緒に行きませんか」
 不意に聞こえた若い女の声に振り向くと車の助手席から若い女が三生を見ている。三生の知らない顔だったが、拓海の同期か後輩か、女子学生らしい顔。運転席にいるのも学生らしい男だった。

 三生はショルダーバッグの中から携帯電話を出して時間を確かめた。
「あの人たちも一緒に行く?」
「そうだよ。ふたりとも三年生」
 拓海の答えを聞いて三生の心は決まった。
 キャスリーンには会えないけれどジェフには会って、そのことをわたしから言おう。雄一さんが伝えているとは思うけれど、やはりわたしからもジェフに言おう。今はキャスリーンとは会えないけれど、それは……。ジェフになら言ってもいいだろう。ジェフがキャスリーンと結婚しているのなら。
「いいわ、行くわ。でも予定があるから少しだけ。それでもいいなら」
「いいよ」
 あっさりと言った拓海に促されて三生は車へ乗った。




 もうすぐ約束の時間だと思って高宮は腕時計に目を落とした。
 華道展はすでにオープニングがされて大勢の客たちで賑わっていた。離れたところにいる高宮にも若い女性華道家の個展らしく会場の中央に季節の花を何種類も使った大きな展示がされているのが見える。 美和との約束の時間が近づいていたが、まだ三生は来ていなかった。三生の携帯へ電話してみたがコールのあとに留守番電話サービスに切り替わった。
 電車の中だろうか?
 そう思ったが、しばらく待っても三生からかかってくることもない。もう一度かけてみたが同じ
だった。
 もうデパートに着いているのか。それとも。

 高宮が会社から同行させていた秘書をその場に残して華道展の会場へ向かうと会場の入口近くに来場者たちを迎えるために立っていた美和がすぐに気がついて近寄ってきた。
「高宮さん、ようこそ」
 挨拶しようとした美和を止めて三生を見たかと尋ねると美和はまだだと答えた。
「ご一緒じゃないんですか。あ、三生は今日の午前中は大学へ行くと言ってましたね」
「そうなのですが、ちょっと今、連絡が取れないのです。大学からはすぐに帰ってくると言っていたのですが。美和さん、なにか心あたりはありませんか」
「心あたりですか……?」
 美和はちょっと考えてから、そういえばと言った。
「誘われていた映画の上映会は今日だったけれど……」
「映画?」
「ショートフィルムの上映会だって言ってました。沢田君ていう後輩が映画監督だっていう外人のひとに頼まれたって誘ってきていたんです。でも三生は今日はここに来るからって断ったんですけど」

 …………
 沢田。ショートフィルムの上映会。
 沢田が。

 ちらりと美和が心配そうに高宮を見上げた。
「美和さん、すみませんが私は失礼して三生を迎えに行きます。華道展にはまた改めてうかがわせてもらいます。申し訳ありませんが」
「あの、三生は大丈夫なんですか?」
 美和もなにかあったと思ったらしい。
「大丈夫ですよ。行き違いになっているだけでしょう」
 美和を安心させるように言った高宮だったが、まだ三生からの連絡はなかった。

 会場入り口から離れるとそれを待っていたかのように秘書が高宮へ近づいて来た。
「社長、先ほどジェフ・レイエス様というかたから会社へ電話があったそうです。ご伝言を承りましたが、いかがいたしましょう」
 それを聞いて一瞬、高宮は三生が来ないのはジェフのところへ行ったからではないかと思った。
「伝言は」
「レイエス様が本日急きょ、奥様と帰国することになったと社長にお伝えするようにと」

 ジェフの滞在しているホテルに電話をして取り次がせるとジェフたちはまだホテルにいたが、ジェフが電話に出るまでにかなり時間がかかり、なにかただならない予感がする。
『タカミヤ? ああ、連絡がついてよかった。ちょっとまずいことになってね』
 やっとジェフが電話に出た。
「どうかしたのですか」
『ホテルの前にマスコミがいる。キャスリーンがいることがわかってしまったらしい。しかたがない、予定を変えて今日帰るよ。急だけどそれだけは言っておいたほうがいいだろうと思って』
「キャスリーンは」
『代わるよ』
 電話に出たキャスリーンの声は先日会った時と同じ、落ち着いたものだった。
『こんなことになってしまって残念だわ。あなたとはもう一度会いたかったのだけど、それもできなくなりました。三生と会いたかったけれど、あの子の気持ちも確かめないままではやはり無理ね。でもあなたに会えてよかった。雄一、三生を愛している?』
「愛しています」
『それが聞けてよかったわ』
 少しの沈黙。
『わたしも愛している。会えなくても三生の幸せを願っているわ。わたしなりに』

 わたしなりに。
 親子として暮らしてこなくても。愛していると言ってやれなくても。
 一方的かもしれないが、それでもそう言うキャスリーン。

 高宮は車に乗ると三生の大学へ向かわせた。キャスリーンたちのことも心配ではあったが、今は三生のことが先だった。


2011.02.05

目次      前頁 / 次頁

Copyright(c) 2011 Minari Shizuhara all rights reserved.