彼方の空 7

彼方の空

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「なんだ、いきなり。あれ、君は……」
 宮沢は怪訝な顔をしたがすぐに思い出したようだった。
「確か前に俺の事務所に来たことあるよね。あのときの」
「そうです」
 あの広告を手掛けたのが宮沢らしいと聞いて宮沢の事務所に行ったことがあった。あの時、拓海はまだ高校生で、モデルの名前だけでも教えてほしいと粘ったが宮沢は知らないと言って最後まで相手にしてくれなかった。
「吉岡さんと話していましたね。なにを話していたんですか」
「君に言う必要はないと思うけど」
「そうですね。でも彼女、彼女があのモデルなんでしょう」
「……なんだって?」
「とぼけないでください。先輩が『ザ・フューチャー』に載せた広告、あのモデルですよ」
「なにを今頃そんなことを言うんだ」
「今頃? あなたにとっては今頃でしょうけど、俺にとってはずっと探していたものなんだ。俺が聞きに行った時はとぼけて教えてくれなかったのはあなたですよ。あのモデル、吉岡三生でしょう」
「俺からはなんとも言えないね」
 拓海の問い詰める口調に反して宮沢はしらっと言った。いや、拓海にはそう聞こえた。

「……わかりました。自分でやります」
「やるってなにを」
「彼女を撮ります。俺は去年のトーキョー・ショートフィルム・フェスティバルで入賞していますから」
 宮沢は半ばあきれた顔つきで見返している。
「だからなんだっていうんだ。俺は彼女がモデルだなんて言ってないよ。それでも君が撮るっていうならいいけど、彼女と交渉はしたの」
「絶対にうんと言わせる」
 拓海は勢いだけでそう叫んだが、宮沢が少し笑ったのにむっとした。
「無理だね。俺だって断られた」
「断られた? それは」
「正確に言うと俺は取り次いだだけだけれどね。彼女にはまったくその気はないそうだよ。結婚して将来の仕事を目指して勉強して、他のことはする気になれないってね」

 じゃあ宮沢は自分と同じようなアプローチを三生にしていたのか。
 他のことをする気になれないだって? 冗談じゃない。こっちはこんなにも探して……。

「俺じゃできないって言うんですか」
「あきらめるんだな。彼女は無理だよ。俺だってだめだった。まあ、彼女は白広社の社長の奥方だから、俺には強引に出られない弱みがあるんだけれどね」

 拓海はふんと鼻で笑った。そんなことか。
 旦那なんて問題じゃない。俺にはそんな打算はない。絶対に承知させてみせる。





 週が明けて三生が大学へ行くと美和が先に来ていたが、近寄ってきた美和は真っ先に気がついたようだった。
「三生、それ」
 美和の言っているのは三生の胸元に光っているネックレスだった。ボールチェーンをところどころにあしらったプラチナのネックレスで中央にしずくのように宝石がひとつ揺れているが、デザインは洗練されたシンプル感があり、 今日の三生の服にも違和感がない。
「うわー、すてきだね。ダイヤでしょう? もしかしてご主人からのプレゼント?」
 図星で言われて三生はそうだと答えるしかないのだが、美和は感心したように言う。
「このブランド知ってる。こんな大人ブランドのネックレスをプレゼントしちゃう高宮さんもさすがだけど、それが似合っちゃう三生も三生よね」
 変な感心のしかた。三生はそう思ったが、褒めてくれているのだからと笑顔になった。
「ブランドなの?」
「あー、これだからこの人は」
 美和がわざとあきれたように言って両手を広げて見せた。
「この前の服にもきっと合うよ。華道展に来るときは絶対にこれ、つけておいでよ。きっと高宮さんもそのつもりでプレゼントしたのでしょうけど」
「うん」
 三生もそうだと思った。三生の胸に光る輝き。
 

 この前の夜。
 三生の家から帰ってくる途中で車の中で眠ってしまったが、マンションへ帰ってきて服を脱がされた記憶はあった。でも眠くて眠くて、そのまま眠ってしまった。
 目が覚めても体のあちこちに気だるい疲れが残っていた。自分が下着だけでほとんど裸なのに気がついたが、となりで眠っている高宮も同じだった。まだ目を開けずうつぶせに枕へ顔をつけている高宮の腕が掛け布団の下で三生にゆるく回されている。 表情も穏やかな眠っている彼の顔。つま先でそっと足に触れると目を閉じたままの高宮の口元がかすかに笑った。胴へ回された腕に力が入り抱きしめられた。
「もう少し眠っていようと思ったのに」
 柔らかな掛け布団の下でふたりの足がからむ。唇が触れあってキス。
「すごい寝坊。今日が休みでよかった」
 三生がそう言うと高宮が片手を伸ばしてなにかを取り、彼の手が三生の胸の上で開かれた。
「な、に?」
 冷たい感触を感じて三生は自分の胸を見下ろした。そこにはしずくのように光る宝石が揺れている銀色のネックレスがあった。
「三生に。つけてごらん」
 高宮が首の後ろでチェーンをはめてくれる。
 首へ掛けられたネックレスを見下ろした三生は、あ、と声が出そうになった。ネックレスよりは下のほう、胸のふくらみに残されている赤い跡。いままでこんな跡をつけられたことは一度もなかった。一度も。
 昨夜の記憶のようにつけられた赤い跡とネックレスだった。
「大学へもつけていくといいよ」
 大学へ? 言いかけて三生はやめた。高宮は何を考えているのか。
 赤い跡は彼以外の人の目には決して触れないだろうけれど、このネックレスは……。

 月曜日の朝、大学へ行くために着替えをした三生はちょっと考えてからこのネックレスをつけた。そのために鏡を見ながら襟元が開いたシャツブラウスを選んだ。三生がそれをつけてリビングへ出ていくと気がついた高宮がちょっと目を細めて、そして三生の手を取った。
「とても似合っている」
 三生の手を口元へ持ち上げて指へキス。三生を見る彼の目がほほ笑んでいるようだった。
「大丈夫みたいだね」
 言われた意味がわかって三生はうなずいた。
 愛する人に笑顔を見せる。今の三生にできる最上の笑顔を。

 講義が終わって建物の外へ出てくるとやはりそこには沢田拓海がいた。壁にもたれて待っていたというふうを装っていたけれど拓海の目は前と同じきついものだった。
 美和と三生が歩いていくと拓海から近づいてきた。
「吉岡さん」
「沢田君」
 三生が答える前にすかさず横から美和が言った。
「何度も失礼でしょ。高宮さんよ」
「いいよ、美和。沢田さん、この前の話ですか」
 美和が拓海にあきれた顔をしているが三生は続けた。
「美和から聞きました。でも金曜日は美和との約束があるし、誘ってもらえる理由もわかりません」
 拓海の視線はあいかわらず厳しいものだったが、三生は平静に拓海を見返した。




 ……こんな顔だったか。
 思わず見つめてしまう。今日の三生は細いストライプのシャツブラウスとブルーグレイの長めのカーディガン、タイトな黒いパンツ姿だったが、いつもとは違うと思った。三生はいつでもシンプルな服装で、今日も特別に華やかな服を着ているわけでもないのにどこかが違って見える。 服だけではない。三生の胸元には小さなしずくのような宝石が光っている。そして拓海をじっと見ている。

 宮沢直人から離れた三生を引きとめた時、怒って拓海をにらみつけた三生の視線と今の視線。
 あの写真とは虹彩の色が違っていたけれども、長い間探し求めていた顔だった。

「このまえ言ったことじゃない」
 拓海がそう言うと三生が少し不審そうな顔をした。
「映画に出てくれないか。俺の撮る映画に」
 三生の目が驚いて、でもすぐに平静な光に戻った。
「お断りします」
「なぜ」
「嫌だから」
「だから、なぜ」
「自分のやりたくないことに関わりたくないし、それをさせようとする沢田さんが嫌だから、と言えばわかってもらえますか」
 三生の顔は静かな表情なのにこれ以上言われても応じないという気持ちがはっきりと表れている顔だった。

 この目、この瞳が……。


2011.01.03

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