彼方の空 5

彼方の空

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「お話はそれだけですか」
 三生の声が低くなっていた。
「高宮と結婚したことまでとやかく言われる筋合いはないと思います。失礼します」

 宮沢をそのままにして三生は大学の門へ向かった。後ろを振り向かずに歩き、通用門の手前まで来たところで後ろに気配を感じて歩調を早くした。もう宮沢と話をする気もない。
「待てよ」
 後ろから声をかけられてそれが宮沢の声ではないのに気がついた瞬間に後ろから追い越した男が前へ回り込んだ。
「宮沢直人となにを話していた?」
 前をさえぎったのは沢田拓海だった。驚いている三生にかまわず彼は聞いてくる。
「さっき話していたのは宮沢直人だろう? なにを話していた?」
「なにって……」
 沢田はきつい視線で三生を見ている。宮沢が大学の先輩であることを知っているかどうかわからないが呼び捨てだ。
「宮沢直人を知っているのか」
 沢田の声が大きくなった。近くを通る学生がふたりを見ている。
「……どいて」
 三生は声が大きくならないように精一杯の自制で言った。
 わけがわからなかった。宮沢の言った事だけでも腹が立つのに、どうしてこの人にまでこんなことをされなければならないのだろう。この人のわたしを見る目……。
 沢田のにらむような視線に三生も負けずににらみ返した。怒りがこみ上げてもう自分を押さえられなかった。沢田を避けるようにして離れて大学の外へ出ると足早に電車の駅へ向かったが沢田も宮沢も追ってはこなかった。

 夕方を過ぎ、暗くなっていく家の中。
 結婚してからも何度か自分の物を取りに来たりしていたが、今は誰も住んでいない家。それでも三生は玄関を開け、ただいまと小さな声で言って入った。父の書斎だった部屋へは行かず、台所や居間を見てから二階の自室へ行く。 身の回りのものはほとんどなかったが、三生が使っていたベッドや勉強机がそのまま置いてある。床へバッグを置いてから今夜はこの家に泊まることをメールすると携帯電話もバッグの中へ入れた。そして自分のベッドへ腰を降ろすと服のままベッドカバーを乱さないようにうつぶせになり、静かに息を吐きながら目を閉じた。






 ――みおう。

 名前を呼ばれてぼんやりと意識が戻りながら声の主が誰かわかった。同時に自分のベッドに横になっているのだと思いだしてまた目を閉じるとベッドがきしんで揺れた。
 となりへ来た体が自分の体へ触れてくる。背中から腕が回されてその接した感覚に彼がスーツのままだとわかる。自分の後ろにもうひとつの体が添っている。
「三生」
 耳へ聞こえる声。三生の背中から肩へ回された腕。三生の左肩を包む彼の左手。お互いの体が動かずに触れていたが、三生は向き直らなかった。
 服越しに触れている夫の体。着ているスーツの布地の感覚。三生の右肩の後ろに触れているのがネクタイの結び目だとわかるほどにぴったりと並び重なるように横たわっているのに高宮はなにも問わない。
 三生は小さく息を吐いた。
「わたしは」

「雄一さんと一緒に暮らして自分の勉強をしたいって思っているだけなのに。宮沢さんはアメリカのプロデューサーからの話だったら乗らないほうがありえないって考えている」
「そういう世界だからね」
「そんなの、わたしには関係ない」
 あきらかに不機嫌な三生の声。
「興味もないし、やりたいとも思わない。雄一さんだって知っているでしょう。それなのになぜ」
「きみの気持ちを知っていても何も知らせずに断ってしまうのはよくないと思ったからだよ。自分のことを知らないあいだに決められてしまうのはきみだって嫌だろうから」

 胴の下へ腕が入り三生の体が引き寄せられた。
「宮沢君に会わせた私が悪かったのかな」
「違う」
 三生がもがいて高宮の腕をはずそうとする。
「雄一さんが悪いんじゃないってわかっている。だけど……」
「怒っているんだね」
 それを認めるようにまた三生が顔をそむけた。
「自分でもわからないけれど、怒っている」

 三生を向き直らせる。
 悲しいのか、怒っているのか。それらがないまぜになったような顔。三生がこんな顔を見せること自体が珍しいのだが。

「……嫌なの」
 三生がやっと言う。
「わたしは女優なんてできない。そんなこと望んでいない。宮沢さんがキャスリーンのことを知らないとしても」

 高宮は黙って聞いていた。
 アメリカの映画プロデューサーの話を三生がもしかしたらと思うのも無理はない。キャスリーンのことがあるから三生は望みもしない方向へ持っていかれるのが余計に嫌なのだろう。
 三生にとってキャスリーンのことはすべてではなくとも割り切れていると思っていた。しかしキャスリーンが有名でいる限り三生にとってそれはずっとつきまとうことでもある。
 必要以上に着飾ったり、派手な目立つようなことは好まない三生。それは結婚した今も変わらない。三生が服や化粧を人目を引くようなものにすればその美しさがもっと際立つはずだが、それは三生がそうしたがらない理由でもあった。

 三生が高宮の胸へ顔をつけた。三生の顔は見えなくなってしまったが、三生の腕が抱きついている。顔を下げて三生のうつむいた顔へ言う。
「三生は三生だよ」
 三生が顔を隠すように向きを変えたが肩が震えている。
「三生は三生だ。私が愛しているのは三生だから」

 三生の体の震えが伝わってくる。寄り添っている狭いベッドの上で服のままでも。
 高宮は静かに三生を抱きしめていた。

 この三生のベッドで抱き合ったのは雪の夜。三生が彼を受け入れて、求めてくれた夜だった。そのときから一生離すまいと心に誓った。


 三生の息がだんだんと落ち着いてきて、やがて静かに繰り返されてくると顔を上げさせた。暗い中でも三生の睫毛にごく小さな光が光っている。
「泣いたりして……ごめんなさい」
 そっとその睫毛に唇をつけた。
「キャスリーンのこと、辛い?」
 三生には答えられないことかもしれないと考えながら聞いてみた。三生がまた視線を落とした。
「……きっと今、そう感じるだけなんだと思う。キャスリーンのことはどうしようもないってわかっている。だから今だけ。このところ忙しかったし、わたし、疲れていたのかも」
「そうだね。三生がまだ話してくれないこともあるみたいだけれど」
 腕の中の三生の体が少し強張ったのがわかった。
「無理に言わせはしないけれどね。でも三生がずっといい奥さんを続けるのならどうしようかと
思っていた」
 急に驚いて目を見張っているような顔を三生が上げた。
「三生が黙っているほうがいいと思うことなら無理には聞かない。私だってすべてを三生のためにしてやれるわけじゃない。こうして三生を泣かせてしまうこともある」
「そんなこと」
「私は三生の保護者ではないし、そうなるつもりもない。三生からここへ泊ると連絡をもらって
黙ってそうさせてしまうほど聞き分けの良い夫にもなれない。三生が帰りたくないと言っても連れて帰るつもりだった」

 じっと見つめる三生の目がまた潤んでいる。やっとぽたりと一筋涙が落ちる。
「……うん」
 三生が涙をぬぐおうとしたのを邪魔するようにキスをした。震えている唇が素直に応じる。やがて深く絡むキスへと変わっていく。


 三生が三生だから。
 だからこの三生を愛している……。







 マンションへ着く前に車の中で眠ってしまった三生を高宮は助手席側に回って抱きあげた。三生が小さな声で何かを言ったが目は閉じたまま眠っている。三生を抱いて駐車場のエレベーターへ向かった高宮が立ち止った。日付の変わった深夜だというのに宮沢が立っている。
「あの……」
 言いかけて宮沢は高宮がネクタイをしておらず上着も着ていないのに気がついた。いつもの整ったスーツ姿の高宮とは違いワイシャツは襟元とカフスのボタンが留められていないままで髪もなんとなく乱れている。そして腕に三生を抱いて宮沢を見ていた。高宮の陰になって三生の顔は見えなかったが、 さりげなく宮沢から三生の顔を隠すように立っている高宮の姿は宮沢に悟らせるには充分だった。

「すみませんでした」
 なんで俺が謝るんだ。宮沢はそう思いながらも頭を下げた。
「いや。気にしないでいいんだ」
 その口調は普段の白広社の社長の高宮だったが。
 エレベーターの扉が開いて高宮が乗る。向きを変えた高宮の腕に抱かれた三生の顔が見えた。子供のように目を閉じて、でもどこか疲れたような三生の顔。おそらくは抱き合って、この高宮にむさぼるように抱かれたか、それとも三生から求めるように抱き合ったのか。そんな顔。
 エレベーターの扉が閉まり、静かな上昇音を宮沢は見送っていた。


2010.12.10

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