春を待つ 3

春を待つ

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「わたしはあなたと一緒にいたい。もう離れたくない」
 抱いた腕の中で三生が言うが、留学をやめてしまうことはある意味三生の将来を棒に振ってしまうことになる。では留学するか。そしたら遠距離どころではないロンドンと日本に離ればなれになってしまう。
「私が仕事を辞めてロンドンへ一緒に行ってもいい」
 すでに高宮は自分もイギリスに住むことも考えていた。

 驚いたのは三生だった。高宮に抱かれていなければ飛び上っていただろう。
 この人は……この人はこんな驚くことを平気で言ってのける。仕事を辞めるって、白広社を? あの大きな会社の社長を? 4代目の社長なのに?
「ば、馬鹿なこと言わないで。そんなこと……そんなことしたら高宮さんは失業じゃないの」
「おや、そんなことにはならないと思うよ。別の仕事をすればいい」
 高宮には思いつきではない何か思惑があるようだったが今はそれを尋ねている場合ではなかった。あきれたように高宮を見ている三生の顔を高宮は手でやさしくはさんだ。
「君と離れたくないのは私も同じだ。しかし君に勉強を諦めさせるようなことはしたくないし、私も君のことで後悔はしたくない。よく考えるんだ」
 高宮の三生を尊重してくれるその言葉に三生は思わず涙がこぼれそうになる。
「わたし……わたしね、どこでもよかった。日本でなければ、高宮さんのいる日本でなければどこでもいいと思っていた。あなたに会えなくなってつらくて……どこでもいいから日本にはいたくなかった。 日本にいたくなかったから留学にかこつけて逃げ出したかったのだと思う」
「三生」
「でも、もうそんな必要ない……でしょう?」
 手を三生の顔から離して高宮が三生を抱きしめた。
「日本にいてあなたと結婚しても出来る勉強や仕事があるわ。だからお願い、仕事を辞めるなんて言わないで」
「三生……」
 三生の頬に口づけしてそっとその涙を吸い取ってやる。三生の涙を見るのはつらい。そう思いながら。
「3月に結婚したい。ね、いいでしょう?」
「私はよくてもあの長谷川君という学生はよくないみたいだったよ」
 珍しく高宮が皮肉らしいことを言う。
「長谷川さんは関係ないわ」
「そりゃそうだろう。でも妬けるんだよ」

 高宮さんが妬くなんて。
 34歳の高宮はその若さにもかかわらず広告代理店白広社の社長として既に押しも押されもせぬ手腕を誇っている業界では知らない者のない存在だ。その高宮が長谷川に妬いているなんて、と三生は思わずにいられない。
「あ……」
 三生の考えていることがわかったのだろうか。首筋へ降りてくる高宮の唇。襟を押し開くように触れてくる彼の息に思わず三生の声が漏れる。
 三生のいるのは高宮のマンション、彼の部屋だった。

 あの雪の夜の翌日。
 三生の家で高宮はプロポーズをしていた。 17歳の三生にかつてしたプロポーズをまた高宮は繰り返した。三生を幸せにするために、そして自分のために。
「結婚しよう、三生。一生そばにいて欲しい。もちろん君の大学での勉強やこれから君のやりたい仕事も全部含めてだ。お互いに歩み寄らなければならないことはいくつもあるけれど、私はそれをふたりの妨げにはしない」
 高宮が白広社の社長であればさまざまな付き合いやお互いの私生活のフォローが三生にも求められるはずだが、三生の負担にならないような方法はいくらでもあった。経済的にも高宮にはそれができる。だから結婚にはもう何の妨げもないはずだった。 三生の留学の話を聞くまでは……。

 高宮の住むマンション、それは高宮が以前から住んでいたマンションだったが、三生が初めてその部屋を訪れたのはプロポーズの一週間後だった。が、その時の三生は少なからず緊張していた。
 ドアを入って高宮が招き入れているにもかかわらず座ろうともしないで立っている。その様子が不審で高宮は三生の顔を覗き込むように「どうしたの?」と尋ねたのだった。
 三生は不安そうに部屋の中を見回している。高宮らしい落ち着いた雰囲気の家具。忙しい高宮のことだ、きっとハウスキーパーなどを入れているのかもしれない。きれいに整えられて無駄な調度品などはほとんどなかったが、それでも 無機質で生活感のない部屋というわけではな
かった。新聞の置かれたテーブル、座った跡の残っているソファー。
「あの、……ここに、この部屋に住んでいたんでしょう?」
 三生が何を言っているのかその意味が高宮にはわからなかったが、三生も自分の言い方が足りないのに気がついて勇気を振り絞って言う。
「結婚していた時に……ここに」
 高宮は思わず三生を抱きしめていた。
「違う。あの時暮らしていたところに君を連れてくるはずないじゃないか。こことは別のところに住んでいた。それでもこの部屋は手放さずにいたんだ。最初からそのつもりだった」

 三生は高宮が銀行の頭取の娘と結婚していた時にここで暮らしていたのではないかと思っていたのだ。三生がそれ以上答えなくていいように高宮は彼女の唇へキスをしながら言う。
「この部屋へ入れた女性は君だけ、三生が初めてだよ」

 三生はやっと安堵したような笑顔を浮かべたが、高宮には彼女の言ったことが嫉妬ではないことがわかっていた。高宮がかつて結婚していたという事実が三生には考えるたびに痛いような現実なのだった。こうしてまた恋人同士に戻れても愛し合っていても過去は変えられない。
「おいで」
 抱きしめて強引とも思えるように三生の腰を抱えあげた。ここは高宮の領域、高宮だけのものだったから。ベッドへ運んだ彼女を横たえておおいかぶさるように口づけ。驚いたような三生の表情がやがてキスの甘さに夢中になっていく。
 忘れろ、と高宮は心の中で言う。忘れさせてやる。

 暗い寝室のベッドの上でほの明るく光るような三生の白い肌。柔らかく息づいているその乳房の先端までもがかすかな光を発しているようだ。
「……だめ、……あっ」
 胸から下腹部へとなぞるように下がっていく高宮の唇にある予感を感じて三生は思わず体を逃がそうとしたが、両足が開かれたまま高宮に押さえられてしまっている。それに気がついた三生の切ない抵抗にも高宮は動じない。彼の舌が触れてくる。三生の熱さを秘めた箇所に。 もう隠そうとしても隠せない。
「そんな……」
 三生の抗議とも受け取れる言葉にも高宮はやめるつもりはない。こんなことは三生にとっても初めてだった。恥ずかしさで足を閉じたくても彼は許してくれない。怖いくらいに高められていく快感に耐えきれないように三生の体が小刻みに揺れる。
「……んっ……」
 三生の小さな声に高宮は念じた。
 忘れろ、忘れてしまえと……。


 そして今また三生をその腕の中で震えさせながら高宮は三生を追い上げていく。口づけと愛撫とをもって。三生の反応のひとつひとつが彼を夢中にさせ、彼女を高めていくことが自分に
とっても快感となって返ってくる。
「あ……」
 入りこむその瞬間に三生は声を上げた。とろけそうなほど柔らかいのにまるで高宮を拒むように締まっている三生の中へ高宮は深く沈みこむ。
「三生、愛している。私の恋人……」
 しっかりと抱きこまれたまま三生はとらえられ、波のように繰り返される快感に身をまかせていく。高宮が動くたびにもたらされる内部からの快感。もどかしいような予感にさらされていく。
「ああ……、もう……」
 目を閉じてしまった三生。
 つらそうな、それでいて快感に酔っているような表情。あごがのけぞり息が引きつけられる、その顔を高宮に見られたまま。高宮だけにしか見せない三生の表情。 高宮は三生が心を許す特別な人なのだと、愛する人なのだと高宮に思わせてくれる、そんな三生の顔。 そして高宮も三生に受け止められるように彼女の胸に顔を落とす。
 ああ、こうしてずっと一緒だ……。

 大きなうねりが引いていき、やがて静かに落ち着いてきた三生の呼吸。激しい歓びの後の
しっとりとした熱さの残る体を寄せて三生の息が高宮の胸に感じられる。三生が高宮の腕の中へもぐりこんで彼の胸に顔をすりつける。 普段の三生からはあまり感じさせない小さな甘え。
「もう君なしではだめなようだ」
「雄一さん……」
 高宮が三生の顔を上げさせた。三生の眼尻に涙が光っている。もう悲しみではない涙が。
「そう、私は三生を愛しすぎているからもう我慢できないんだ。こうして毎日三生を抱きしめていたい。早く結婚しよう」
 それだけで三生が過去を忘れられるなどとは思ってはいない。体を重ねるだけではない一緒に暮らす毎日、心を寄り添わせる毎日、その積み重ねを過ごしてこそ彼は三生に忘れさせることができると考えていた。
 それには……やはりもう離れることなどできない。留学のことは三生の言う通りにするしかないだろう……。


2008.09.04

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