春を待つ 2

春を待つ

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「……いや」
「三生」
「い……や。雄一さんが……何を言っても」
 高宮の腕の中で三生(みおう)が首を振る。さっきから説得しようとしても三生はどうしても譲らない。とうとう高宮は三生を抱きしめていた。
「よく考えるんだ。君にとっての……」
「本当にいいんです。わたしがこうしたいんです」
 高宮は心の中でこっそりとため息をついた。三生は高宮のそばにいたいと言っているのに、自分だって三生を離したくないという思いでこうして抱きしめているのに。

 そもそもは文芸四季編集長の三崎からの電話だった。 高宮に会いたいという三崎の申し出に高宮は自分から文芸四季社へ出向いたのだが、久しぶりに会う三崎は単刀直入に話し始めた。
「三生ちゃんから聞いたよ。結婚するそうだね。だが今日はその祝いを言うために来てもらったんじゃないんだ。君はどうやら知らないようだからね」
「私が知らないとは……どういったことでしょう?」
 以前会った時と変わらない表情で目の前にいる三崎だったが、高宮はこれは間違いなく三生に関する大事だろうと確信しながら三崎の次の言葉を待った。
「三生ちゃんの大学の専攻のことは君も知っていると思う。三生ちゃんが大学2年のときに3か月ほどイギリスへ短期ステイしたのはご存知かな?」
 大学2年、それは高宮と再会する前のことだ。
「……いいえ、知りませんでした」
「やっぱり三生ちゃんは君に話していなかったんだな。まあ、あの時は吉岡も元気だったし。三生ちゃんは大学の課程を終えた後で本格的に留学する予定だったんだよ。 しかし三生ちゃんは留学をやめるという。いや、もう大学にもそう伝えたそうだ。 じつは吉岡が亡くなってから私が三生ちゃんの後見人というか留学の際の身元引受人を引き受けていたんだ。それで三生ちゃんの担当の教授のほうから私に連絡があってね」
「それは、留学というのはどういう予定だったのでしょうか」
 珍しく高宮の顔から驚きが消せずにいる。
「来年の秋からロンドンの大学で。イギリスやアメリカには日本美術のいいものがかなりあるそうで研究も盛んらしい。あの子は英語には不自由しないし、海外から見た日本美術を研究したいと言っていたよ」
 三生が日本美術の研究を志しているのは知っている。しかし留学とは……。

「三生ちゃんはもう決めているらしいがね。それでも三生ちゃんがどうするつもりなのか聞いてやってくれ」
 穏やかに言う三崎と目があった。 三崎とは高宮が半田を三崎に会いに行かせた後は会ってはいなかった。あれからすでに二年以上も経っている。
 三崎にしてもかつて半田から話を聞いていなかったら最近になって三生からいきなり高宮と結婚すると言われても賛成できなかっただろう。しかし三崎は高宮の結婚と離婚のわけを知っていた。 知っていたがそのことに関して高宮へ何かを言うつもりはなかった。何も言わず三生の留学のことを知らせた。
「三生ちゃんに幸せになってもらいたいからだよ。ああ、月並みな言葉だがね」

 高宮は文芸四季社を辞すとすぐに三生の携帯へ電話を入れた。
「今すぐ会えないか。君は大学にいるのかい?」
『そうですけど、何か』
「すぐに行くから大学の前で待っていてほしい。もうそっちへ向かっているから」
『高宮さん? どうしたんですか?』
「すぐ行く」

 大学の門の前の歩道で待っている三生を見つけると運転手に待っているように言ってからすぐに車を降りて彼女へ近づく。三生はグレーのウールのコート姿で立っていた。
「君に聞きたいことがある」
 いきなり話す高宮を困惑の目で見ながら三生には話の内容は半分予想がついてはいた。
「あの、あとではいけませんか。わたし、これから」
「留学をやめるそうだね」
「……そうです」
「どうして? なぜ私に話してくれなかった? なぜ私に黙って決めたんだ?」
 高宮がちょっと目を細めた表情で尋ねた。
「それは……」

 三生の前で高宮が怒った顔をしている。
 仕事中だろうに会社の車で乗りつけて、彼はかなり怒っているみたいだ。普段、怒らない高宮だけにこうして怒りが顔に出ているということは相当に怒っている証拠だ。どうしよう……。
「君は」
 言いながら高宮がつと前に出て三生に近づく。思わず三生は身構えてしまったのだが、その時。
「どうかした? 吉岡さん」
 三生と同じ年頃の学生らしい若い男が割り込むように三生のそばへ立った。
「あんた、吉岡さんになにか用ですか? 彼女、嫌がっているみたいですけど」

 高宮が眉をひそめるようにしてその男子学生を見た。普段の高宮なら絶対に見せない険しい顔だったが、すっとその表情を彼は納めて男子学生へ向き直る。あわてたように三生が言った。
「長谷川さん、いいんです、なんでもないんです」
「でも」
 三生に長谷川と呼ばれたその学生を高宮は観察した。学生らしいカジュアルな黒いパンツにダウンのジャケットという服装。背は三生とほとんど同じくらいだった。 眼鏡をかけた色白の秀才タイプの、しかし嫌みのない顔つき。どうやらこの学生は……。
「三生、後で迎えに来るから連絡してくれないか」
 高宮が三生の名を呼んだだけで長谷川がむっとした顔をした。もちろん高宮は気がついていた。
「君はここの学生かな」
「そうですけど、あんたは?」
 長谷川がムキになったように答える。敵意むきだしといったその若い態度から考えられることはただひとつ。そしてその若者への答えを高宮が言う前に三生が先に答えた。
「こちらは、高宮さんはわたしの婚約者です」
 このひと言で長谷川の表情が驚愕と言っていいほど変わった。
「えっ……、吉岡さん、それって……」
「三生、じゃあまたあとで。失礼、長谷川君」
 驚く長谷川を尻目に高宮は車へ乗り込んでしまった。三生の困ったような表情。そしてそれよりももっと驚いている長谷川の顔。
「社へ戻ってください」
 運転手へ言いながら高宮は不機嫌な気持ちが半分、そして三生が長谷川に対して自分を婚約者だとはっきり言ったことへの満足が半分という複雑な心境だった。

「それって本当に? あいつと婚約しているって?」
「あいつ、なんて言うのは長谷川さんらしくないわ。婚約のことは本当」
 これは長谷川にとっては再起不能級のショックだった。……なんだってえ?!
「そんな……そんな……」
 長谷川啓太は心の中でそうつぶやくのが精いっぱいだった。三生からゼミへ戻ろうと言われて歩いて行ったが茫然としてその後のゼミはまるで頭には入らず、途中で教授から注意を受けてしまったほどだ。 三生の自分を見る視線、その視線は同情ですらなかった。 三生は誤解のないように長谷川にはいつもはっきりした態度を取っていた。つきあってほしいという長谷川の言葉も受け入れてはくれなかったし、それ以前も以後も友人以上の親しみは見せない。
 ここ数カ月で彼女の雰囲気が変わっていたのは感じていた。吉岡三生が父親を亡くしたことも知っていたので父親の死後、沈んでいた三生を見守るつもりで待っていた。 肉親を亡くした悲しみが癒えたら……大学へはちゃんと通ってきていたからまだチャンスはある、そのうちに……。
 年が明けて冬休みが終わってゼミで顔を合わせた三生はどこか変わっていた。美しいというひと言では表せない感じ。ふと見せる表情、他の友人と話している時の笑顔や本や資料を読みこんでいる時にちょっと顔をあげるといった何気ない表情が柔らかい。
 もともと同級生の中でも大人びた印象がある三生だったが、もう「大人びた」ではなく三生の表情は完全に大人のものだった。そんな三生の表情にこっそり見とれながら啓太には三生がそんな表情を見せる理由にまでは考えが及ばなかった。 ただ三生に見とれて焦がれていたのだ。
 自分の愚かさ加減に啓太はあきれて後悔の嵐にがっくりと落ち込んだが、しかしその後に
やってきたショックはそんなものでは済まされなかった。
 三生が予定していた留学をやめるという。しかも3月、来月には結婚するのだと聞かされたからだ。
 来月? もうひと月もないじゃないか!
 あの、あの男と……結婚?!


2008.09.03

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