春を待つ 1

春を待つ

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 この日の午後、文芸四季編集長の三崎は名も知らぬ男に会いたいと言われて突然の訪問を受けていた。
「レポ・フォトス?」
 スクープ雑誌か。
 できては消える雑誌の中でもこういった雑誌の生き残っていく割合は少ない。その雑誌の記者が何の用だろうか。しかし紹介者は白広社の高宮だという。三崎には断ることもできたが高宮の紹介というのが引っ掛かった。
「半田です」
 ネクタイもしていない一見くたびれたふうな男が名刺を差し出す。薄っぺらな名刺。三崎も名刺を出しながら座るように勧める。
「挨拶は得意じゃないんで。用件を話させてもらいます」
「どうぞ」
「これを」
 封筒から取り出した書類と写真。それらに目を落とす三崎がちらりと目を上げるまで半田は
待っていて、それから話し始めた。
「J銀行の中村頭取の息子に関するものです。『トップサークル』の裁判はご存じでしょう?」
 何年か前のことだが、大学生たちがパーティーを開いて資金を集めマルチ商法まがいの詐欺をした事件だ。
「その事件に中村頭取の、この息子が関わっていると……そういうことのようですな」
 また書類に目を戻しながら言う三崎に半田はうなずいた。
「情報の提供者は白広社の高宮社長です。これをうちの雑誌へ載せるということで明日、私が中村頭取に会うことになっています」
「載せるのですか」
「それは中村頭取次第です。俺はほかの人間の持ってきた記事ソースをそのまま書いたりするようなことはしない。少なくとも自分で裏(裏付け)を取りますよ。だがこれは俺の記事ではなく高宮社長の頼みだ。 俺はあの人に借りがあるんでね。だからJ銀行の中村に会うんですよ。 この記事を出されたくないのなら高宮と娘を別れさせろと。まあ脅しですな。まさかこんな脅しをやれと高宮から言われるとは思わなかったが、借りを返すためならしかたないでしょう」
「中村頭取がそうしなければ息子に関する記事を載せると」
「そういうことです」
「高宮社長が」
「そうです」
 三崎は複雑な思いでまた書類へ目を落とした。
「でも高宮社長はどうして」
「キャスリーン・グレイの娘のせいですよ」

 三崎にも疑問だった。なぜ高宮が吉岡三生(よしおか みおう)ではなく銀行の頭取の娘と突然と言っていいほど急に結婚したのか。政略結婚というやつか。だが、それにしても三生ちゃんとはどうなっていたんだ。 まさか三生ちゃんを捨てるようなまねをあの男がするとは……。
 この前、三生の父の吉岡順三に会った時に順三から高宮の結婚についてそれとなく調べて欲しいと言われていたが、三崎以上に父親の吉岡順三のほうが疑問なのは当然だろう。
 それにこの記者、三生ちゃんを追いかけていたのはこの記者なのになぜ高宮はこの男を抱きこんでいるんだ? それにこの記者の言った三生ちゃんのせい、というのはどういうことだ?

「高宮社長がキャスリーンの娘とつきあっているのを中村に握られたらしい。まあ都合の悪いところを押さえられたんでしょう。俺ならふたりがホテルにでもいるところを狙いますがね。相手は高校生ですから。 おまけに……キャスリーンの娘だ。それがなければ事はもっと簡単だったはずです」
「じゃあ高宮社長が結婚したのは」
「取引ですよ」
 半田が皮肉な表情で答えた。
「いや、脅されたのかな。そんなのに引っ掛かるなんて高宮はまだまだ甘かったということですよ」
「だが高宮社長とキャスリーンの娘のことを追いかけていたのはあんただろう」
「そうですよ。でも俺は記事を脅しに使ったことなどありませんよ。少なくとも今までは。あなたはどう思っているか知りませんがね」
 半田の皮肉を込めた言葉に三崎の顔にまた複雑な表情が浮かぶ。
「だが、他のことが原因でうちの雑誌はつぶれてしまった。俺はもうキャスリーンの娘の件などどうでもよかった。他に書きたい記事があったんでね。だから高宮社長に新しい雑誌を作る資金提供をしてもらった。高宮社長から俺への貸しとしてね」
「高い貸しだ」
 三崎が苦くつぶやく。
「あの人にとっちゃたいしたことないでしょう。それに俺はこうして借りを返すことができる」
「それで中村頭取に会うと」
「そうです」
 三崎は煙草を取り出して火をつけた。半田にも勧めると当然のように半田も火をつけた。煙草を吸いながら半田から言われたことをしばらく頭の中で整理する。
「高宮社長のしようとすることはわかった。だがなぜそれを私に?」
「保険ですよ」
 半田が煙草を揉み消す。
「俺が自分の取材で中村に会うのならこんな保険はかけない。勝手にやらせてもらう。だがこれは高宮の作戦だ。あいつはもう二度と失敗したくないと考えているらしい」
 それは中村を思う通りに出来なかった時のための保険か、それともこの記者が予想外のことをした時の保険か。三崎のいる出版社にも週刊誌はある。半田の雑誌と比べるまでもなく、はるかに発行規模の大きい雑誌が。 この半田という男もそれくらいはわかっているだろう。
 三崎は半田を見ていたが、半田の顔は何を考えているのかわかりそうでわからなかった。
「あの高宮も利口なんだか、馬鹿なんだか……。あの娘がそんなに好きならさっさと結婚してしまえばよかったんだ。そうすりゃキャスリーンの娘だって騒がれてもどうってことない。そうでしょう? なまじな金と地位があるやつは困る」

「わかりました。これは預かっておこう」
 三崎が言うと半田はもう立ちあがっていた。ふてぶてしいその外見通りの男だと三崎は思った。この男を高宮が使うとは。





 雨の降る街を高層階のマンションの部屋の窓から眺める。にじんでいる外の世界。しかし暗い部屋の中は空調の効いた別空間だった。いつものスーツ姿で高宮は窓の近くに立っていたが、スーツもネクタイもワイシャツも濡れて水分を含んでいた。
「あなた」
 加奈子が近づいてきた。

 雨に濡れて帰ってきた高宮。加奈子が手を伸ばしてタオルで拭く髪が黒く乱れる。ネクタイの結び目を解きシャツのボタンをひとつずつはずしていくが、高宮は黙ってされるがままになっている。 その胸元から覗く素肌に部屋の照明が暗い陰影を落としていた。
「こんなに濡れて……」
 加奈子がシャツの胸元から手を差し入れる。高宮は抱き返してはこなかったがかまわず加奈子は体をすり寄せた。
「…………」
 つま先立つようにした加奈子の唇が高宮の唇に触れる。なんの表情も変えない高宮。しかし彼からは珍しく強い酒の匂いがした。

 こんなに飲むなんて……もういい加減あきらめてもいいころよ……。
 結婚してふた月もたつのに高宮は加奈子を抱こうとしない。最初は怒った加奈子だったが、怒っても無駄だとわかってからは傲然と言っていいほどに高宮を挑発していた。 着替え、風呂上りのバスローブを着ただけのくつろぎ、そういったことを高宮がいるにもかかわらず平気で行う。 まるで本物の恋人同士、夫婦のように。 しかし高宮はそんな加奈子の様子を見ても目をそらすわけでもなく、席をはずすわけでもない。何の感情も見せず淡々としている。家にいること自体が少ない高宮だったが、加奈子は偽りといってもいいその生活を決してやめようとはしなかった。
 ……こんな私がそばにいるんですもの。所詮、男なんて理屈を言っていても体さえ合わせてしまえば……。
 しかし高宮はなにもしない。加奈子のいらだちは最高潮に達していたが、それでもそれを高宮に悟らせるのは加奈子のプライドが許さなかった。

 そんな高宮だったが今夜は雨に濡れて帰ってきた。いつも車なのにどうしたのだろう。変な人。わざわざ雨に濡れるなんて。でも髪の濡れた雄一さんはすてきだわ……彼の裸を見てみたい……。
「ね……風邪を引いてしまうわ。脱いで……」
 ボタンのはずされたシャツを開く。引き締まった胸の筋肉と張りのある肌。そして肌の色とあまり変わらない胸の乳輪。そっと指を這わせる。と、不意に高宮が言った。
「それ以上するとあなたがつらくなりますよ」
 くっと加奈子が笑う。
「つらい? それは雄一さんでしょう。おつらかったらそれを我慢せずに私を抱けばいいのに」
 さらに加奈子が体を絡ませる。しかし高宮は加奈子の手をはずして彼女を向かい合わせた。
「私と離婚して下さい」
「離婚? 何をおっしゃるの。そんなことしたらあなたが困るわよ」
 加奈子が高宮の手を振り払った。
「あの子のこと、どうなってもいいとおっしゃるの?」
「お父上はあなたと私の離婚をお認めになりましたよ」
「……父が? まさか」

「『トップサークル』、ご存知でしょう」

「大学生が他の大学の女子大生を巻き込んで金を集めて詐欺。ばれそうになるとその女子大生たちを輪姦して口止め工作。そんなことをしていたのがあなたのお兄さんだとは」
「そっ……それは兄のしたことよ! 私には関係ないわ!」
「そうかな?」
 静かに言う高宮に加奈子の背筋が寒くなる。
「その乱暴された女子大生のひとり。あなたの同級生だったのでしょう? 同じ高校の。その女子大生は被害届を出していないそうだが、それはあなたのお父上のおかげでしょう?」
「なっ……」
 加奈子の顔が蒼白に青ざめていく。
 大っきらいだった高校の同級生。彼女をサークルへ誘った。故意に、故意に誘った……。

「では私と一生夫婦でいますか? 私はあなたのしたことを忘れないし、忘れぬままあなたを抱くことはない。それでもいいと?」
 加奈子はソファーへと座りこむと手をついてしまった。
「加奈子さん、離婚届などただの紙切れです。あなたのサインがなくてもできる。でも私は少なくともあなたに私たちの離婚を認めて欲しい。そうでなければあなたが不幸になるからです」
「不幸? あなたと離婚することは不幸じゃないっていうの……?」
 すっと高宮の手が伸ばされて加奈子の顔を上げさせた。
「不幸ではありません。あなたは美しく知性もある。憎み合って夫婦を続けることの無意味さもわかるはずです。あなたの美しさは私のためにあるんじゃない」
 じゃあ誰のためにあるって言うの……私が美しいだなんて……。
「あなたの意志で離婚をしてください。あなたの人生ですから」
 この人の言うことはいちいちもっともだわ。嫌な人。こんなにも魅力にあふれているのに私だけにはそれを使おうとしない……。

「いいわ……離婚するわ。でも条件がある。私を抱いて」
 加奈子の涙が頬を伝う。
「抱いてくれたら……あなたの思い出だけで生きていける……」
 加奈子の腕が高宮に抱きついて唇が触れそうに近づく。
「お願い……」
 乱れたような吐息を吐いて加奈子が上目遣いに目を上げた。高宮の髪が影のように額にかかりボタンのはずされたシャツの下の素肌に加奈子の手が触れている。
 この人はどうするかしら……。
 今まで自分に対して高宮から憎しみの言葉を言われたことはなかった。あからさまな非難も。しかし激しい態度をとらなくてもこの人は私を許すことはないのだ。たとえ私を抱いたとしても。
 この人は決して私を許そうとはしない。
 決して……。



 その夜、半田が高宮の指定したバーのカウンターで待っていると遅れて高宮がやってきた。 外は雨が降リだしたらしい。
「スコッチを」
 ウィスキーか。悪くない。
「俺にもくれ。シングル」
 黙って半田の分もバーテンに注がせる高宮。
 さすがにいい酒だった。こいつ、いつもこんないい酒を飲んでいるのか。しかし自分から呼び出して黙って酒を飲む男ほどやっかいなものはないな。特に高宮のような男では。と思っていたら高宮が口を開いた。
「半田さん、ご足労をかけました」
「俺は一杯飲ませてもらうだけだよ。そうだろう?」
 ウィスキーのグラスを置きながら半田は隣りに座る高宮を見た。いつ見てもきっちりとしたスーツ姿。酒を飲んでも乱れたりすることはないのだろう。半田はそれ以上は何も言わず黙って酒を飲んでいた。

 文芸四季の三崎に言った言葉を思い出す。
 ……なぜ高宮は吉岡三生と結婚してしまわなかったんだ。高校なんぞやめさせてさっさと結婚してしまえば、そうすりゃ高校生に対する淫行だと言われてもキャスリーンの娘だって騒がれてもどうってことはないだろう。なぜそうしなかった? 高宮。
 その問いを口にしない代わりに半田は自分で答えを考えた。
 吉岡三生は若かった。彼女の可能性、将来を考えたのならそうは出来なかったのだろう。それをしなかったのは高宮のやさしさか。だがそれは。
 半田は苦い顔つきで酒を飲み干した。高宮は2杯目を注がせている。
 高宮も同じように若かったら、若さにまかせ吉岡三生をさらってなにもかも、なにもかもを捨てさせてしまえばそれでよかったのだ……。

「俺は帰る」
「半田さん」
 高宮は引き止めなかった。
「ありがとうございました」
 高宮に言われ、ふんといった顔で半田は出て行った。高宮はこれで離婚できるだろう。しかしそれを喜ぶでもない高宮の様子。何を考えているのかわからない高宮にもうこれ以上つきあうのはご免だった。半田のような男にすらそう思えた。

 高宮はグラスの中で氷とウィスキーの混じり合う液体の揺らぎを見つめていた。
 高校生だった三生を抱いた自分。若い彼女を抱くことにためらいがあったのは否めないが、三生の自分を愛してくれる気持ちと自分の三生を愛する気持ちで踏み込んでしまった。そして自分自身への自信。
 三生が高校生でも愛し合って将来を誓い、そして彼女を抱くのならば何の障害も起こさせない自信があった。しかし……。
 これは自分の過ちだ。三生を彼女が望んだこととはいえ早く大人にしてしまった。待てなかった。待たなかった。
 しかしそれが後になって大きな代償を払うことになったのだから……。

 三生。
 彼女は今、どこにいるのだろう。この雨の降る都会の中で彼女は何をしているのだろう。 そう考えることだけが今の高宮に残された唯一のものだった。加奈子とは離婚できるだろう。しかし離婚できても三生は戻ってはこない。
 高宮は飲み続けた。

 都会の街に……夜の雨はいつまでも降り続く。


2008.09.02

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