冬、二夜 3


冬、二夜

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 瑠璃の携帯電話へかけても出るわけがない。瑠璃はそんなヤワな玉じゃない。
 若林は今朝、T企画のオフィスへ出社してからずっと機嫌悪く当たり散らして社員たちから嫌がられていた。どの社員もさわらぬ神に祟りなし、というように若林に近寄ってもこない。
 ……まったく、俺が何をしたって言うんだよ。何もしなかったのが悪いっていうのか? 考えても見ろよ、プロダクションの社長が所属の女優に手を出すなんてシャレにもならないどころか、信用問題ものだ。こっちだっていろいろ苦労しているんだよ。それなのに瑠璃のやつ、写真雑誌なんかに撮られやがって。

 高宮からは昨夜のうちに「明日は俺に電話をくれ」と言われた。しかし若林はああだ、こうだと自分で理由をつけてまだ高宮にも瑠璃にも電話していない。瑠璃のやつに電話をしても噛みつかれるのがオチだ。写真週刊誌のことで怒鳴りたいのはこっちなんだぞ。俺が責められる理由はどう考えてもないんだが……。
 社長室の自分のデスクでぶつぶつ言いながら若林はとうとう観念したように瑠璃へ電話をした。あいだに高宮が入っている以上、うやむやにはできないだろう。まったくいい友人をスポンサーに持ったもんだよ……。
 しかし瑠璃の携帯はやはり電源が切られていた。

「写真週刊誌のほうはなんとかなるのか?」
 若林はやっと不機嫌な顔をやめて瑠璃のマネジャーの菊池を呼んだ。
「さあ、別にいいんじゃないですか。瑠璃さんは本気じゃないし。それよりこのところ瑠璃さんは
ちょっと体調が悪いですよ。気持ち的に荒れているし。それなのにゆうべも飲んでいたんでしょう? そんなんで瑠璃さんに体調崩されたら社長のせいですからね」
 眼鏡をかけた目で瑠璃のスケジュール表を見ている菊池はどうやら瑠璃の味方らしい。すっかり若林が悪者扱いだ。
「……体調が悪い?」
 若林には初耳だった。自分へむけられた非難は置いておいて、すかさずそれに反応した。
「おい、どうして早くそのことを言わなかった?」
「公私ともに支えてくれる人が瑠璃さんには必要だってことですかね」
「……菊池、おまえいつからそんなに分別臭くなったんだ? それに瑠璃はそんなに根性のないやつじゃねえよ。ともかく瑠璃は来週にでも医者へ見せてくれ」
 菊池はわかっていないのはあんたのほうだと言いたいのをやめて立ち上がった。瑠璃が心配なら自分でそう言えばいいのに、と思いながら。

 若林はもう一度携帯電話を手にして考えていた。
 瑠璃が体調悪いって初めて聞いた。瑠璃は俺の前でも仕事でも、そんな気配も見せないくせに。
 まあ、心配ないだろうが。いや、でも瑠璃は……。



 高宮は若林が自分から電話をかけてくるのを待っていた。今日はずっと社にいる予定だったから待っているのはかまわなかったが、若林よりも先に午前中に出かける三生から連絡が入っていた。
『これから尋香と一緒に出かけます。後で携帯を切っておくけれど』
「ああ、気をつけて行っておいで」
『若林さんは?』
「まだ電話してこない。でも、大丈夫。必ず若林を迎えに行かせるから」
『……雄一さんはわたしの考えていることがわかるのね』
「愛する妻の希望をかなえてやりたいと願うのは男の願望だよ。愛している」
 小さな声で三生が笑った。
 そして若林から電話がかかってきたのはもう昼近くになってからのことだった。

『あー、高宮、俺だ』
 高宮は若林にはわからないように顔だけで笑った。声だけで電話の向こうの若林が不機嫌な顔をしているのが目に浮かぶようだ。
「やっと素直に観念する気になったか」
『……だからこうしておまえに電話しているんだろ。瑠璃はまだおまえの家か?』
「瑠璃さんなら三生と一緒に出かけているよ」
『そうか、おまえの家にも電話をしたんだが留守なのはそういうわけか。悪いが奥さんの携帯の番号教えてくれないか』
「うちの奥さんじゃなくて瑠璃さんへ直接かけたらどうなんだ」
『俺がかけたって電話にゃ出ないよ、瑠璃は。さっきかけたけど電源が切ってあった』
「ああ、それは」
 高宮は三生から連絡をもらっていたから瑠璃が三生と一緒にどこへ出かけたのかも知っている。
「しばらくふたりへは電話できないよ。今、病院へ行っているから」
『 病院?』
「そう、瑠璃さんは三生と一緒に産婦人科へ行っているんだが」
『……え?』

『さんふじんかああーー!』
 若林が叫んだので高宮は受話器を耳から遠ざけた。
『な、な、な、なんだって? それは、その、つまり、瑠璃が、瑠璃が、……だから?』
 瑠璃のマネジャーの菊池に言われたことが若林の頭を駆け巡る。
 瑠璃はこのごろ体調が悪いって…… 、それは、それは……。

「おまえ、身に覚えがあるのか」
『あるわけないだろ!』
 もう一度、高宮は耳から受話器を離した。
『自分のところの女優に手を出すほど俺はダメな人間じゃないぞ! ……おい、じゃあ、誰の、まさか今つきあっている、あの男の……』
「いや、俺の子だよ」

『……はあ?』
 若林の今度は素っ頓狂な、いや、間の抜けた声というのか。
『なっ? おい、それって、高宮、まさか、おまえ、いつのまに瑠璃と……』
「おい、あわてるな」
 高宮は笑って言った。
「驚いただろう。おまえがうまくやらなかった罰だ。でも俺の子というのは本当だよ。病院へ行ったのは三生だ。瑠璃さんはついて行っただけだ」







「瑠璃」
 若林が高宮の家へ迎えに来ていた。
 けれども瑠璃は睨むように若林を見ている。瑠璃の美しい黒い瞳で睨まれるとかなり壮絶だ。けれどもそこは若林でそれには慣れているらしい。
「俺が悪かった。正直に言うから許してくれ。瑠璃、もうほかの男とつきあうな。おまえがほかの男とつきあうと気分が悪い。お願いだからごねないでくれ」
「社長の気分の問題じゃありませんけど」
「瑠璃、いや尋香」
 若林はさらに困った顔をした。
「つきあうんなら俺とつきあってくれよ。これでも勇気出して言ってるんだ。13も年下のおまえにこんなこと言うなんて。やっと高宮の気持ちがわかったよ」
 そばにいる三生の顔にちらっと苦笑するような表情が浮かぶのを見て尋香はため息をついた。
「社長と高宮さんを一緒にしないでください。わたしに好き勝手させないために自分とつきあわせるって言うんなら遠慮します。あなたが社長としてわたしとつきあうのなら、つきあいたくない」
 若林もさすがにむっとしたようだった。そのままの顔で言う。
「ばか。好きでもない女に名前を呼ばせるか。こっぱずかしい」

「……和彦」
 若林が瑠璃のコートを差し出した。瑠璃が酔っぱらって高宮の家へ来る前に若林が着せようとしても着なかったコート。若林はぶすっとした顔で、でもそれは照れを隠しているのだとわかる顔で尋香へコートを着せかけた。
「送ってくれるの」
 尋香のすねたような上目づかいの瞳。
「送るわけないだろう。これから俺のところへ来るんだよ」

 尋香はあいかわらず、すねたような顔をしていたが三生の家を出たところで若林から肩へ腕を回されると自分から若林に抱きついた。三生に見られているのに気がついて若林がちょっと困ったような顔。けれども寄り添って帰っていくふたりを三生は安心したような笑顔で見送った。

 よかった。よかったね、尋香……。


                            ◇


「ただいま」
「おかえりなさい」
 いつもと変わりなく帰宅した高宮を三生は玄関で迎えた。
「瑠璃さんは帰ったのかな?」
「うん、若林さんが迎えにきて」
 そのまま高宮が三生を抱き寄せると軽くキスをしてきた。
「三生もご苦労様。大変だった?」
「ううん、そんなことない。ちょっとびっくりしたけど、なんだかうまくいったみたいだし」
「素直じゃないからな、若林も」
 夫の言葉に三生が笑った。いつもと変わらない三生の、高宮の笑顔。

 夕食の後片付けは高宮も手伝ってくれた。高宮が若林へなんと言ったのか三生も尋ねることはしなかったが、心配することはもうなかった。高宮がベッドで本を読んでいると三生も入浴を済ませて寝室へ入ってきた。
 寝室の明りに照らされて三生の頬に落ちるやわらかな陰影。妻のそんな顔を見ると高宮も笑顔にならずにはいられない。高宮は自分の前へ三生を座らせると腕をまわして三生の体を自分へもたれさせた。

「まだ聞いてなかったね。検診はどうだったの?」
「うん、順調だって。つわりもひどくなかったし、安定期に入ったから無理しなければ普通の生活で差し支えないって」
「そう、よかった」
 寄り添った高宮の胸のおだやかで規則正しい生の証し。それは三生の体の中にもある。ゆっくりと三生の腹部を撫でている高宮の手のひらに感じられるふたりの愛の証を秘めたふくらみ。 三生の手や足の指先までもがいつもよりずっとあたたかいのは小さな命を宿しているからなのだろうか……。
「今夜はもう若林の邪魔も入らないだろう。でも、無理はさせないよ」
 静かに、やがてだんだんと熱を帯びて交わされるキス。顔を離して高宮を見る三生の唇が開いて濡れたように光っている。もうキスに酔ってしまっているような表情の三生。

 ……そう、わたしは酔っている。
 雄一さんのキスに、そしてこの幸せに酔っている。あなたと一緒に暮らせる毎日の日々に酔っている。

 それはお互いが求めずにいられない相手だとわかっているから。
 三生にとっても、雄一にとっても……。


 尋香と若林はうまくいくだろうか。あのふたりのことだから、また何かあるかもしれない。それは三生にも高宮にもわからない。三生と高宮にあるように、尋香と若林にもふたりの愛の形があるのだから。

 ……でも。

 三生は願わずにはいられない。
 尋香もわたしも愛する人に愛されていけますように、と。

 これからも、この冬の夜のように愛に満ち足りていられますように……と。

終わり


2009.09.01
窓に降る雪 拍手する

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