冬、二夜 1


冬、二夜

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 カウンターへひとりで座った瑠璃(るり)は水割りのグラスをにらみつけるようにじっと見つめていた。明るくはない店の中のカウンターには瑠璃の座っているところから少し離れてふたりの男が座って飲んでいたが、瑠璃は気にしていなかった。やがて店の中へT企画の若林が入って来た。
 瑠璃はひと口、水割りを飲むとグラスを音をたてて置いた。若林が瑠璃のそばへ近寄ったのと同時だった。
「瑠璃」
 若林は座らずに小さな声で言った。
「おーそーい」
 振り向きもせずにまた水割りを飲みながら瑠璃が言う。
「仕方ないだろう。急に呼び出しやがって。さあ、帰ろう」
「嫌」
 瑠璃の不機嫌な声に離れたところにいる二人連れの男達がちらちらとこちらを見ている。
「酔ってんのか」
「そうよー、悪い? 飲んじゃ悪いの?」

 若林は手に負えない、といった表情丸出しでため息をついた。
「いいから帰ろう。さあ、瑠璃」
「嫌よ。帰らない」
 言い張る瑠璃の腕を取って立たせようとしたが瑠璃は動かない。
 店には瑠璃の他は二人連れの男達だけだったが、若林は客の少ないうちになんとしても瑠璃に騒がれずに店を出たかった。


                          ◇


 ソファーで寄り添う三生の体を抱きながら高宮はあたたかな妻の体を撫でていた。ソファーへ寄りかかった高宮の胸へもたれるようにしている三生。
 二月の冬の日々は寒い日が続いていたが、カーテンが引かれた部屋の中のソファーサイドに置かれた赤みがかったルームライトの灯りは静かな暖炉の火に照らされているかのような柔らかな光を投げかけている。 この家に暖炉はなかったが、快適に調節された家の中はあたたかく高宮はパジャマを着ているだけだった。 三生はきなり色のコットンのパジャマの上にニットの
カーディガンを着ていた。でも、そのせいだけではない三生の体のあたたかさ。静かに肩をなでてやっていると三生が顔を上げてキスしてきた。
「ん……」
 高宮のキスが首筋へと移っていく。ゆったりとしたパジャマの胸元から見える三生の素肌へ
キスをしてやるとやはりそこもあたたかかった。高宮の唇でわかるほどに。
「すごくあたたかいね……」
 高宮の手が三生のパジャマの裾から入り込もうとしたちょうどその時、電話の音が鳴り始めた。
「誰だ? こんな時間に」
 ふたり顔を離して目を見合せた。三生がパジャマを直して立ち上がろうとしたが
「いいよ、座っていて」
 と高宮は先に言って立ち上がった。


 T企画の若林からかかってきた電話を高宮は聞いていたが「わかった」と短く返事をすると妻の三生に振り返った。
「まったく若林も気が利かないな。こんな時間に」
「若林さん、どうかしたんですか?」
「瑠璃さんが酔っぱらって手がつけられないらしい。私を呼べって言っているそうだ」
「ええ! 尋香が?」

 瑠璃の本名は尋香(ひろか)で三生とは中学、高校時代の同級生だ。でも尋香が酔っぱらうなんて三生には想像もつかない。それに雄一さんを呼べって?
 高宮は若林が社長をしている芸能プロダクションのT企画のオーナーでもあったから瑠璃も高宮とは親しい。それにしても……。こんな時間に呼び出されても高宮は瑠璃が三生の友人だから行ってくれるのかもしれない。そう思って三生は申し訳ないような気持ちになった。
 高宮は寝室で黒のタートルネックのセーターとスラックスに着替えをするとダークブラウンの
ツイードの上着を持ってリビングへ出てきた。
「わたしも一緒に行くわ」
「いや、いいよ。外は寒いし、瑠璃さんが何と言っているのかわからないけれど、若林がいるのだし、そうやっかいなことにはならないだろう」
「でも」
「なにかあったら電話するから。大丈夫」



 高宮が若林と瑠璃のいる店へ行くとすぐに若林が席を離れて出てきた。
「すまん、高宮。もう瑠璃がわけのわからないことを言って。とにかく瑠璃を家へ帰したいんだが言うことをきかなくて」
「どうしたんだ?」
「ちょっとね。最近の瑠璃は男とうまくいってなくてね」
「それでどうして俺を呼ぶんだ?」
「それが瑠璃の……」
「あー! 高宮しゃちょー、来てくれたんですねえ!」
 瑠璃の大きな声に言いかけた若林が首をすくめた。
「ご機嫌ですね、瑠璃さん」
「ご機嫌ー? まさか、そーんなこと、あるわけないでしょう」
「おい、瑠璃」
 黒いニットのワンピースを着た瑠璃を支えようとして出した若林の手を瑠璃はこともなげに押し返した。
「社長はもういいの。わたしは高宮さんと飲むんだからー」
 ふらつく瑠璃の腕を高宮が持って支えた。
「瑠璃さん、そろそろ帰りましょう。送って行きますよ」
「いや」
 すねたように瑠璃が言う。見る間に瑠璃の目に涙が盛り上がっていく。
「みーんなわたしの言うことなんて聞いてくれないの。三生だったら聞いてくれるはずだわ。だから三生を呼んだのに。高宮さん、三生は?」
「すみませんね、瑠璃さん。でもそんなに飲んでいたら三生も驚きますよ。さあ、帰りましょう」
「いやっ、三生に会いたいー」

「瑠璃、無理言うなよ」
 若林が瑠璃へ彼女のコートを着せてやろうとするのを瑠璃は払いのけた。
「社長はもう帰って。わたしは三生のところへ行きますう」
「瑠璃、いい加減にしろよ」
「もお、なによ、和彦ったら。わたしの彼のことが気に入らないんでしょ! 男の嫉妬ったら」
「和彦」
 高宮が若林の顔を見た。和彦は若林の名前だ。
「おまえ、なにかあったのか」
「いや、俺はべつに……」
「オレがおまえのこといい女にしてやるって、そう言ったくせに……帰れー、和彦なんか。高宮社長にみーんな言ってやるんだから」
 ぐいと顔を近づけた瑠璃に言われて若林は心底困った顔をした。
「いいよ、瑠璃さんはうちへ泊めよう。三生にも会いたがっていることだし。明日は瑠璃さん仕事は?」
「完全オフ。でなきゃこんなにならないよ」
 若林は瑠璃が着ようとしないコートを持ちながら渋い顔をした。
 
 
「み、お、うー」
「ちょっ、尋香ったら……!」
 三生が玄関で手を貸そうとするのを尋香は笑って要らない、という手振りをしたが足元がかなり危なっかしい。尋香を支えるために高宮が手を貸した。
「あー、高宮しゃちょー、いたのねー」
 いたもなにも。
 尋香がソファーへ座るのを三生ははらはらしながら見ていた。
「高宮社長は知っているんでしょう?」
「何をですか」
「もお、そんな言い方やめてくださいってば」
 ここで尋香は持っていたバッグを放り出した。
「和彦のことですよー」

 和彦? 若林社長のことだろうか。と、三生がそう思った時。
「みおうー、会いたかったー」
 三生へ向かって手を振りながら言う尋香に三生はタオルとコップの水を持ってくると尋香の隣りへ腰を下ろした。尋香は水を飲むとふーっとため息のような声を出した。
「ったく、うちの社長ときたら。あれもダメ、これもダメって、もうっ」

「男とつきあうな。遊びに行くな。酒を飲むな。いくら所属プロダクションの社長だからってそこまでプライベートに口出ししていいんですかあ?」
「それは瑠璃さんに期待しているから若林もそう言うんじゃないのかな」
「たーかーみーやー」
 高宮のことを呼び捨てにする尋香に思わず三生の顔が引きつる。
「しゃちょーは、しゃちょーの味方なんですか」
 尋香は自分の言い方のおかしいのに気がついたのだろうか。急にけらけらと笑いだした。
「和彦は男が欲しいんだったらオレがつきあってやるって、そう言ったんですよ。男が欲しいなら! あははー、失礼しちゃうわ。だーれが男に不自由しているっていうのよ。もう……」
 急にぶつぶつ言いだす尋香。そんな尋香をなんとか取りなそうと三生は話しかけようとしたが、高宮が黙ったまま目で制した。
「だ、か、ら、高宮さんから和彦へ言ってください! あんたのほうがわけがわからないって。ほんとのところ、わたしのこと、どう思っているのかってー!」
「ひ、尋香」
 三生は驚いてしまった。話がよく見えないが、これでは若林が尋香のことを……。
「高宮社長だって知っているんでしょー。だからー」
 
「わたし、帰る」
 急に尋香が立ち上がったので三生はあわてて止めようとした。こんなに酔っている尋香をいくらなんでもひとりで帰らせるわけにはいかない。
「尋香、今夜は泊っていきなさいよ」
「えー」
「瑠璃さん」
 高宮も立ち上がったが不意に尋香が高宮へ抱きついた。高宮の首に腕を回して抱きついている。
「もう歩けない。歩けなーい」
「歩かないほうがいいですよ」
 高宮が尋香の体を抱き上げた。三生に合図をして奥の部屋のドアを開けさせる。

 高宮が尋香をベッドへ寝かせると三生が尋香のイヤリングやブレスレットなどをはずしてやって尋香のバッグといっしょにサイドテーブルへ置くと、尋香の体へ掛け布団をかけてやってからふたりは部屋を出た。
「ごめんなさい、尋香ったらあんなことを」
「瑠璃さん、少しは気が済んだかな」
「尋香があんなにひどく酔うなんて」
 しかし高宮は微笑したまま三生を手招いた。
「飲んではいたけれど、そんなに酔っているとも思えなかったがね」
「えっ……」
 三生は驚いて夫の顔を見た。

 そうなのだろうか。三生はてっきり尋香が酔っぱらって言いたいことを吐き出しているのだと
思ったのだが。
 そんな驚いている妻の顔を高宮はやさしくなでた。
「心配しないで。私からも若林へ話しておくから。若林は間違ってはいないと思うけれどね」
「若林さんは尋香のこと……」
「まあ、そのへんはやつも考えていると思うよ」


2009.08.18

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